九重京子さんが、NHK連続テレビドラマ「おちょやん」で注目されていますが宝塚時代の顔画像(写真)や生い立ち~人生などが気になる方はおおいのではないでしょうか(*^^*)
また、ドラマのモデルにもなっている人物ですから、放送はどこまで脚色されているのかも気になりますよね。
浪花千栄子さんから、「略奪」した形になりますが、渋谷天外(2代目)を魅了するほどの可愛さや美しさを持っていたのでしょうか(*^^*)
今回は、九重京子さんの宝塚時代の顔画像(写真)や、生い立ち~人生についてとおちょやんとの違いなどについて見ていきましょう。
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目次
九重京子の宝塚時代の顔画像(写真)!
NHK朝ドラ『おちょやん』。主人公のモデルはドラマ以上に“壮絶人生”だった?(週刊SPA!)#Yahooニュースhttps://t.co/IebGpT1iB4
— 名古屋ゆりあ (@yuriarhythm0214) March 19, 2021
九重京子さんの、宝塚時代の顔画像(写真)をご紹介します。
私が見た感じ方は、「キリッとした面立ちで、少女には見えない」という印象でした(*^^*)
とても「凛々しいスッキリしたお顔」です。
宝塚時代の顔画像(写真)は、笑顔の表情では無かったので、九重京子さんは緊張していたと思いますが、ちょっと話しかけづらい感じもしました。
タカラジェンヌとして活躍していた頃は、実質1年間のみという短い期間の中で年齢は13歳位の顔画像(写真)でしょう。
九重京子さんの表情は固いのですが、通った鼻筋や少し細目の目は、少女のあどけなさよりも「凛々しさ」を感じさせました。
舞台用のメイク映えしていたのでしょうね(^^)
九重京子の宝塚時代の顔画像(写真)は可愛いと美人どっち?
九重京子さんの、宝塚時代の顔画像(写真)は可愛いと美人どっちなのかご紹介します。
「凛々しさ」を感じたという第一印象ですので、可愛いよりも「美人系」のお顔立ちでしょう。
化粧映えするお顔立ちなので、メイクによってまた変わってくる感じですね^^
舞台用のメイクは、顔立ちをはっきり見せるために「濃いしっかりメイク」です。
さらに、衣装によってはメイクも多少の違いがありますよね。
九重京子さんの宝塚時代の顔画像(写真)を見ると濃いメイクですが、その化粧も映えさせる顔立ちだと思います。
見た感じでは、「娘役」もいけるのではとも思いましたが、スッキリした顔立ちは、男性用メイクの方が映えるのではないでしょうか。
ですが、役柄で「可愛い娘役」ではなく、「凛としたクールな女性役」があれば、適役かもしれないという印象です。
ということで、九重京子さんは可愛いよりも「美人」でしょう^^
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九重京子の宝塚時代と松竹時代はどちらが輝いていた?
九重京子さんの、宝塚時代と松竹時代はどちらが輝いていたのかご紹介します。
小学校を卒業したあとに「宝塚音楽学校」に入学して、一年後に「大阪松竹歌劇団(OSK)」に入団しています。
そのため、松竹時代の方が在籍していた期間が長いので、九重京子さんが活躍して人生が輝いていたのは「松竹時代」でしょう。
大阪松竹歌劇団(OSK)に所属していた時に、子どもの頃の生い立ち情報では14歳でデビューしています。
この時は「娘役」だったと言われています。
その後は「男役」として約10年間、舞台に立ち続けていました。
舞台役者・女優としてお仕事をしていた機関は宝塚時代が約1年間、松竹時代は約10年間です^^
九重京子さんの顔画像(写真)は、圧倒的に松竹時代のほうがたくさん撮られています。
ですが、松竹時代は「戦前・戦中・戦後」の混乱期にもあたりました。
戦争に入る前は、大阪松竹歌劇団(OSK)も宝塚と同様に華やかな舞台だったでしょう。
九重京子さんも、持ち前の華やかさと凛々しさで、男役として舞台に立ち、多くの人を魅了していたと思います。
ですが、戦争が始まり「舞台演出」も戦争一色に染まり始め、おそらく戦前・戦中では、本当に何もかもが変わってしまったのでしょう><
戦後の昭和22年(1947年)に大阪松竹歌劇団(OSK)を退団していますが、戦争が終わるまでは「自分の望んでいた舞台では無かった」のではないでしょうか。
松竹時代は、約10年間という長い期間でしたが、その期間の中に「戦争が始まって終わった」という、過酷な時代でもありました。
九重京子さんは、過酷な時代でも、できる限りのことをしていたのでしょうね。
だからこそ「退団」を決意したと思います。
それほどまでに、一生懸命に松竹で頑張って、頑張りぬいて燃え尽きたのでしょう><
九重京子さんの生い立ちから宝塚時代は、ある意味、下積み時代でもあったと思います。
松竹時代は、下積み時代と華やかな舞台と、過酷な現実の時代だったのでしょう。
どちらがより輝いていたかは、ちょっと難しいですが「役者として舞台で活躍できた」という点では、松竹時代の方が輝いていたでしょうね(*^^*)
九重京子の生い立ち!
九重京子さんの、生い立ちをご紹介します。
産婆(助産師)のお母さんと、顔も名前もわからないお父さんの間に大阪で産まれています。
九重京子さんをお腹に宿した時に、結婚を望まれたそうですが、二人ともが「一人っ子」であったために、結婚ができなかったと言われています。
産まれた大正時代は、家の存続が重要視されている時代だったので、結婚して「生涯をかけてどちらの家に入るか」で揉めたのでしょうね。
九重京子さんが産まれてから、二人は別れているので、結局、いいように決められなかったのではないでしょうか。
その後は、健やかに育ち、女優としての人生を望んだのでしょう、「宝塚音楽学校」に入学し宝塚時代には人気者で活躍しています。
「宝塚」は、今も役者を目指す女の子たちの「憧れ」そのものです。
今でも、入学の競争率は20倍と言われているほど高いです。
当時の競争率は「5倍」くらいだったでしょう。
戦後、宝塚歌劇団がとても人気が出たため、宝塚音楽学校の競争率はとても高くなり「東の東大・西の宝塚」と呼ばれていたと言われています。
九重京子さんの生い立ちで、役者を目指すきっかけは「幼い頃から住んでいた街」にあったのではないでしょうか。
その当時の大阪の街並みを見れば、とてもにぎやかで華やかに発展していることがわかります。
当時は、街中に「芝居小屋」があったそうで、気軽に演劇を見て楽しむことができたと言われています(*^^*)
若い頃の九重京子さんは、そんな芝居小屋に通い、役によって「人柄」が変わる変化を面白いと感じ、役者に興味を持ったのでしょうね。
小学校を卒業して、宝塚音楽学校に入学したのも、「役者への登竜門」と思っていたのでしょう。
九重京子の人生!
九重京子さんの、人生をご紹介します。
晴れて「宝塚音楽学校に入学」した後に、とても残念なことに「1年」で退学してしまいます。
その理由は、「通学が大変だったため」とも言われていました><
その理由はわからなくはないのですが、「それだけのために宝塚を辞めたの?」と、ちょっと言いたくなるような気持ちになりますよね。
今の感覚ならば、「学校の寮に入るか、部屋を借りて独り暮らしをする」という選択肢もあると思います。
※宝塚音楽学校は「一人暮らしは禁止」です。
ですが、九重京子さんの宝塚時代は1930年代なので宝塚音楽学校には「寮」がなかったのでしょうね。
「すみれ寮」は宝塚音楽学校の寮として有名ですが、いつから存在していたのかはわかっていません。
「すみれ寮」は1960年~1970年には存在していました。
ですが、九重京子さんが入学していた当時は、まだ無かった可能性があります。
そして、宝塚音楽学校は「朝が早く・終業が遅い」ことでも有名です。
昔から、「しつけ」が厳しいことでも有名な学校で、花嫁修行の一環として通う人も多かったと言われています。
九重京子さんが通っていた時代も「朝が早く・終業が遅かった、学業も厳しかった」のでしょう。
このような背景を見れば、1年で辞めてしまったことも、良い人生経験になっていると思いますし仕方なかったのないことだと思います。
宝塚音楽学校を辞めた後は、「大阪松竹歌劇団(OSK)」に入団しています。
昭和22年に退団するまでの約10年間は、この歌劇団で「男役」として活躍しました。
女優デビューも、こちらの大阪松竹歌劇団(OSK)に来てからで「14歳」で初舞台を迎えています。
初舞台は、倒れてしまった先輩の代役だったそうですが、代役でも14歳で初舞台って凄いですよね(^^)
その後は、九重京子さんは「男役」として活躍して、大阪松竹歌劇団を退団後は、各地へ巡業に行ったり、歌謡ショーに出演していたと言われています。
そうこうしているうちに、後の運命の伴侶に出会う出来事がおこります。
かつてお世話になっていた「松竹」から、「新しい劇団を作ったから団員として参加しないか」というお誘いがきたのです。
その劇団に入った先に、後の旦那さんになる「二代目・渋谷天外」との出会いがありました。
渋谷天外氏は、この時既にご結婚されていて、お相手は看板女優の浪花千栄子さんです。
この二人が、他の数人の仲間たちと一緒に「松竹新喜劇」を旗揚げしていたのです。
そして九重京子さんは松竹新喜劇に入団し、その後、渋谷天外氏とはあまり褒められた関係では無いなりに、お子様を授かり劇団を退団して子供を出産します。
その後は家庭を守っていました。
子供を授かった時にに、天外さんから「女優を辞めてほしい」と言われたため引退したんだとか。
お子様が産まれた後でも、浪花千栄子さんが渋谷天外氏との離婚に応じなかったため、なかなか結婚ができなかったと言われています。
九重京子はおちょやんとの違いをご紹介!
九重京子さんは、おちょやんの朝日奈灯子のエピソードとの脚色の違いをご紹介します。
朝比奈灯子は、第19週から登場していますが、まずは、おちょやんの朝比奈灯子の登場シーンから箇条書きで見ていきましょう(*^^*)
【朝比奈灯子の登場から】
- 道頓堀の焼け野原の中で、主人公たちのお芝居を見て感激する
- 自分で社長の元に行き、鶴亀新喜劇に入団を志願
- 朝比奈灯子は、新しい劇団「鶴亀新喜劇」の発足と同時に入団
- 必死に芝居に打ち込むが、なぜか見守ってくれている主人公を拒絶
- 行き詰っていた主人公の夫が、朝比奈灯子の家から出てくる
次に簡単にですが、九重京子さんが松竹新喜劇に入団するくだりを箇条書きで見てみましょう。
【九重京子が松竹新喜劇に入団するくだり】
- 大阪松竹歌劇団(OSK)を退団後、巡業や歌謡ショーに出演する
- 松竹から声をかけられ、松竹新喜劇に入団する(少し前に松竹新喜劇は発足している)
- 浪花千栄子さんより指導を受ける
- 千栄子さんの旦那さんの渋谷天外氏が九重京子さんの家から出てくる所を目撃される
九重京子さんは、おちょやんの朝日奈灯子のエピソードとの比較してみると、本当に良くにていますよね(^^;
主人公の生い立ち~人生を語る上では仕方ないですが、ここまで似せなくても良かったのではないでしょうか。
違いは「自分から劇団に入団を志願した」ところと、「九重京子さんが入団したときには、松竹新喜劇は発足していた」ことでしょう。
この違いが「脚色された部分」でしょうね。
モデルの九重京子さんは、声を掛けられて入団しています。
朝比奈灯子は自分から入団を志願していることから、「芝居に対する熱意を持っている女性・劇団にとっての主要人物」という位置づけと、印象をつけるための脚色なのでしょう。
そして、九重京子さんは「おちょやん」の主人公のモデルになった「浪花千栄子」さんの運命を大きくかえた人物です。
「おちょやん」は主人公のモデルの浪花千栄子さんが、どん底から這い上がり、日本のトップ女優になっていく姿を描いた物語でもあります。
その浪花千栄子さんを、どん底に落としたエピソードとして、「九重京子=朝比奈灯子」の存在は欠かせないものなのでしょう。
私は「昼ドラばりのドロドロの修羅場をNHKが放送できるのか?」や、「どこまで脚色してNHKで放送するのか?」という好奇心もちょっとあります(^^;
九重京子さんの宝塚時代の顔写真(画像)と比べて、松竹時代の姿のほうが場数を踏んでいるので経験豊富なだけあって表情に貫禄が増している印象も受けました(*^^*)
この辺りのエピソードは、現実ではかなりの修羅場でしたでしょうし、だからと言って、主人公のこれからを考えると、避けては通れないエピソードです。
史実とおちょやんドラマは、どのように違いがあって脚色されて放送されていくのか、今後の放送が見逃せませんね^^
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九重京子のまとめ
九重京子さんの、宝塚時代の顔画像(写真)は1年間くらいしかタカラジェンヌではなかったので、貴重な姿ですがキリッとした表情で男役も女役もどちらも似合っている印象がありました^^
NHK朝の連続ドラマの主人公のモデル・浪花千栄子さんの人生に深いかかわりのあった人物・九重京子さんの産まれてからの生い立ち~人生は苦労の連続だったと言われています。
両親が結婚できなかったため「私生児」として育ちますが、宝塚音楽学校に通えるほどの「ルックスやスタイルの良さ」を持っていたと言われています。
外見だけでは無かったとは思いますが、渋谷天外(2代目)との恋は、周囲の人たちを混乱させることになっています。
きっかけはどうであれ、結果を見れば「魔性の女」と呼ばれてもおかしくはない女性でしょう。
九重京子の宝塚時代の顔画像(写真)!!生い立ち~人生!おちょやんとの違いは?
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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